はい、どうも。



年末年始のご挨拶ができず
申し訳ないです。


しかも

タイトルからして
重すぎるてなあ。




インテリア記事が
中途半端なとこで
終わってるというのに
大変申し訳ないんですが、

今日は

雑談のみとさせていただいても
よろしいでしょうか。


ただし

新年には全くふさわしくない
話題であり、

また

いつものような
私独特の文章で書こうと
思いますので

読む人によっては
不快に感じたり、不謹慎だと
思われる場合もあるかと
思います。


なので

死生観や介護殺人、
病中の苦しみ、死にざま など

そういった類のワードは
受けつけんわ、という方は

この先を読むのは
お控え下さいますよう
何卒、宜しくお願い致します。



それと

記事を上げてない間にも
毎日ポチっとして下さった方が
おられましたこと、

ほんーまに ありがとうございました。



バーチャルの世界とは言え
何の義理立ての必要もない
人間を応援して下さる、ちゅーのは

ほんま すごいことやなと思います。




えーっと
今日は記事が長いので、

てか、今から記事を書くんやけど
おそらく長くなるであろうと
思われます。


なので

この先を読まんわ
っていう方で、

けど ポチっとだけはしとくわー
ていう方が
もしかしたら おられるかも
しれんなと思ったので、

そんな方のために

今日は、記事最後ではなくて
ここにポチっとするとこを
持ってきておきますね。

(そういうことだけは
 手際よくやる)



いや、

さも、もっともらしく書いたけど
結局はポチっとが欲しいです、
てことです、はい。




ね? ヤラしい人間やわ。

(ね?や あらへんがな)


年が明けたら
スーパー素敵人間にでも
生まれ変わってるかと思いきや、


1ミリも変わってなかったわ。



相変わらず
欲望のかたまり人間っすわ。

(語尾でヘラヘラすな)




そんな煩悩まみれの人間に
もし良かったら、

下の2つを押して頂けると
ほんーまに、有り難いです。


(皆さん→『イヤやわ(-_-)』)


こちらと、
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こちらです。


面倒くさい ひと手間、
恩にきます。

ありがとうございました。




というわけで

今年も、煩悩というリュックに
山ほど邪推な念を詰め込んで
生きて参りますので、

何卒、何卒、

宜しくお願い致します。


(皆さん→『ほんまにイヤやわ(-_-)』)



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12月29日に
おかん(実母)が逝きまして。


67歳でした。



5年以上の闘病生活
だったんですが

私がリノベをし始めたのも
ブログを書き始めたのも

実は、おかんの介護の辛さから
一時的に逃れるため、
というのが、一番の理由でした。



みなさんは

介護殺人、という言葉を
メディアなどで耳にされたことが
あるでしょうか。


介護が辛すぎるあまりに
病床の妻を夫が殺してしまう、とか
はたまた、子が親を
殺してしまう、とか。


私はそれを
身をもって体験した一人でした。

体験した、ではないな。

体験しそうになった、やな。



おかんは

気難しい人で、
ものすごい天邪鬼で、
全てが思い通りにならないと
ヤケを起こす人で、

けど武士みたいに
筋が1本通ってて、
ひたすら我慢強い、

そういう人で。



おとんは

仕事が続かない、
とにかくお金に緩い、

けど心根が優しい、
音に持たない、

そういう人で。



そんな二人は、私の幼少期から
ずっと、とにかく不仲やって。


おとんに対して
恨みしか無いおかんは

病床に伏せるようになってから

今まで溜め込んできた
恨みを晴らすかのように
おとんに当たり散らしたんやわ。




67歳ゆーたら
まあ、とりわけ早い死
ということもないけど、

今の長寿社会では
ちょい早めかもしれんなあ。


けど

おかんは、若い時から
重度の喘息持ちやったから
私はちっさい頃から
いつ おかんが死ぬかと思って
ビクビクしながら過ごしてたから、

私の中では

もう十分生きてくれた、と
思ってます。



そもそも私は、
おかんと あまり いい関係は
築けんかったんやわ。


親子関係とか
家族の内面って

その家の人間にしか
分からん、独特のもんが
あるから

そこは他人には図り知ることは
できん領域やと思うんやけど、

私の場合は

おとんが作った借金で
泣くおかんを見て育ったせいか

とにかく おかんを喜ばせたい
という思いが とかく強い子供
やったんやわ。


私は、妹と2人姉妹なんやけど
おかんが、娘たちの前で
泣くことは1度もなくて

必ず、娘たちに見えんとこで
ひっそりと泣いてたんやわ。

おそらく、その光景が
幼少期の私の目には
強烈に残ったんやと思う。



ほんで おかんは、子供らに
とにかく学歴を望んだ人やったから

【お手伝い券】をあげれば
ゴミ箱に捨ててあって、

お小遣いで貯めたお金で
おかんに服を買った時も
普通にゴミ袋に捨ててあって。

私はそれを見て、悲しかったりとか
切なかったりとか、そういうのは
一切無くて、どう思ったかというと

『あ、これは違うんやな。
 これではおかんは喜ばんねや。』

と思ったんやわ。



だから とにかく勉強した。
生徒会をやったりとか。

おかんが喜びそうなことを
いつも考えた。

おかんとの間柄において
あらゆることは全て
おかんの顔色を見て決める
ことしか出来んかったから、

こんな歳になっても なお
おかんの呪縛から
解かれることは無くて。



けど、おかんに そんな自覚は
もちろん無いから

おかんは

私や妹やおとんが
自分の思い通りになって
くれんことに関して いつも、

『私の人生は、いいことなんて
 一つも無かった』

て言うのが口癖やったんやわ。



私は、おかんの その考え方が
ものすごく嫌いで

娘2人が曲がりなりにも
成人して家庭を持って
孫にも恵まれたというのに、
それを どうして幸せだと
思えないのか、

そんなことで おかんと よく
喧嘩になった。





5年ほど前から

ただでさえ不仲やった おとんとの
不仲が、どんどんエスカレートして

そこに嫌気がさした おかんは
目もあてれんほど
自暴自棄になって、

結果

乱れた食生活をして、
1日にタバコを30本ほど吸って、

『これでポックリ死なんかなー』

て言うては、
周囲の人間を困らせた。




実家には、おとんとおかんが
2人で暮らしてて

私も妹も、実家から
車で5分くらいのところに
住んでて。


けど

親の不仲と、おかんの不摂生と、
一向に減る気配の無い
おとんのギャンブル癖、

それらを見るのも聞くのも
イヤで たまらんかったから

私も妹も、その近さに
住んでいながらも、

実家には寄り付かんように
なってしまってて。



そうこうしてるうちに
とうとう おかんは病気になって

入退院を繰り返すようになった。



『ほら、見たことか。
 不摂生して病気になって
 自業自得やわ。』

ていうのが5年前の気持ち
やったなあ。




間質性肺炎、といって

肺がどんどん硬化して
最終的には呼吸できなくなる
という病気やったんやけど、

その他にも

糖尿病・高脂血症・高コレステロール
高血圧・リウマチ、

もう見事なほど
成人病100点満点、みたいな
状態やったから

いろんなことに苦しんだ。




月日を追うごとに
病状はどんどん悪くなって、

それと共に

おかんの周囲への当たりは
どんどん激化していって、

おかんの世話をするのも
入退院を繰り返す生活も
おかんの八つ当たりを
受けるのも、

もう全てが限界、
と思ったのが

3年前。



それから また
同じようにして1年が過ぎ、

もう ほんまに無理や、
と思ったのが

2年前。



また同じようにして1年が
過ぎた頃、

これ以上 すり減る神経は
もう無い、ていうくらいに
家族らは疲弊し切ってた。


このままやったら
私か妹かおとん、
誰かが おかんの首を絞めて
しまうことになるかもしれん、

かもしれん、じゃなくて

きっと、そうなる、


ていうほどまでに
周囲の人間は
追い詰められてた。



それが、1年前のこと。




このままでは私は
確実に おかしくなってしまう、

何かで気を逸らさないと、

と思って やり始めたのが
このリノベでした。



けどリノベを独りでやっても
絶対、途中で辞めてしまう
やろうから、

そのために

このブログをやり始めたんやわ。



その頃の おかんは すでに
1日中、寝て過ごすことが多く

自宅にでっかい酸素の機械を
置いて、そこから酸素の
チューブが10mほど繋がってて、
24時間、酸素のチューブを
鼻につけた状態で、

なんとか つながりながら
歩くことが出来る日もあれば
歩けん時は車椅子を使って。

オムツをして、インスリンの
注射を打って、リウマチの
激しい痛みと、間質性肺炎からくる
呼吸のしづらさに耐えながら、

ただ天井と時計を見て
過ごす日々。

施設に入ることを激しく
拒んだから、

せめて、訪問看護の
サービスを受けて、家族らの
介護の負担を少しでも
軽くするしか術が無かった。



そんな状況下に置かれた
おかんは当然、日増しに
家族らへの八つ当たりが
激化していく。


おかんから
『今から死ぬから』
という電話が夜中に
かかってくる。

急いで駆けつけてみても、

おかんに死ぬ素振りなんて
無い。


ただ、周囲の同情を
買いたいだけ。

ただ、『死ぬなんて言わないで』と
止めて欲しいだけ。

ただ、周囲を困らせたいだけ。



またある日には おとんから
『母ちゃんが暴れてるから
 今すぐ来てくれ。』
という電話がかかってくる。

急いで駆けつけると

酸素のチューブを
引っこ抜いて
薬を全部 燃やそうとしてる。


それも、ただ

おとんへの腹いせを
したいだけ。



そんなことが3日に1回
という頻度で起こる。



それが、このブログを
書き始めた当初の頃でした。





精神も肉体も極限まで
不安定な人間に付き添う、

という生活を続けていると、

いやがおうなしに、こちらも
ヤラれてくるわけで。




心身共に擦り切れて
もう どうにも
ならなんようになって、

自分の生活も、

JK(女子高生)と
NC(年長さんの次女)の母親業も、

家事も育児も全部

全てを投げ出してしまいたく
なるような、

そういう

狭い視野でしか生きて
いられなくなった時に、

記事を書くことで

どうにか平静を保つことが
できた。




だから

どんなに疲れてようが
寝てなかろうが
心が すさんでいようが、

とにかく記事を書いた。



そうすることで
疲弊して現状から逃げ出して
しまいそうになる自分を

無理矢理、

つなぎ止めることができた。




そして

そこにポチっと押して
加勢して下さる人の数を
見ることで、

深く深く、感謝した。

見ず知らずの人間を
応援してくれる人の数の多さに

ただただ、感謝した。



バーチャルで心を満たすことしか
出来ない、

そんな弱い人間でしか
なかった。



けど

弱かろうが、
バーチャルに依存してようが、

この際、どうでも良かった。



おかんの首を絞めて
自分も死ぬ、などという
最悪の事態を免れるためなら。




そして

もう無理、と毎日思いながら
過ごしてきたけど

夏を過ぎたあたりから
状況は更に激化した。



単純に

おかんの病状が
想像を超えるくらいに
悪化していった。



秋ごろから おかんは
とうとう 八つ当たりをするだけの
気力も無くなった。


私は、毎日、

頼むから早くお迎えが来てくれ
と願った。

おかんが逝くことだけを
毎日願いながら生活した。



母親の死を、実の娘が
真に願う。

それほどまでに、

それまでの過程が
長く苦しいものだったことと、

おかんの病状が
とても見れたものじゃ
なかったことと。




11月中旬に高熱と呼吸困難で
救急車で運ばれて
再入院した。

もう救急車を呼ぶのも
何回目か分からん。



それから

おかんが死ぬまでの1か月半、
人生でこんなに長い1か月半は
なかったような気がする。




おかんは病状の辛さから
病室でモノを投げたり
奇声を発したりしたもんやから

病院のベッドにベルトで
縛り付けられた。

腰を圧迫骨折していた
にもかかわらず
ベルトで縛られてしまったから

尋常じゃないほどの腰の激痛に
苦しんだ。


呼吸は、医者いわく、

針の穴から息を吸って
針の穴に息を吐くほどの辛さ、
だと言う。



さらに痰の検査で、あかん菌が
検出されたもんやから

隔離病棟に移された。


おかんの病室に入る時には
ビニールのエプロンと手袋
そしてマスクをしてから入るよう、
指示を受けた。




ラスト2週間は

半分白目をむいて
意識もうろうとした状態やった。

私が、おかんに顔を
近づけて

『誰か分かる?
 もう少しや、頑張れ』

と言うと、
わずかに首を縦に動かした。



もう、生き地獄でしかない。


その様子は
とても見れたものじゃなかった。




おかんは長いこと
看護師として働いてきた人で

高熱が出ても解熱の座薬を
つっこんで働きに行く、

ぎっくり腰でも痛み止めの
座薬をつっこんで働きに行く、

吐き気がある時は
通勤途中の車内で吐きながら
それでも働きに行く、

そういう型破りなほど
我慢強い人が
あまりの辛さから、
自分の首もとに
手をやって、私に こう言う。

『頼む、絞めてくれ』

聞き取れるのが やっとな声で。




そんな おかんを前にして

『不摂生の罰が当たったんや。
 自業自得や。』

とは、もう、

よお思わんかった。



ただ、毎日、
おかんが逝くことだけを願った。

携帯を肌身離さず持って、
病院から訃報の連絡が
入ることを ひたすら待った。




その頃のおとんは もう
憔悴し切ってたから、

病院からの連絡も
おかんの死後の采配も

私が取り仕切ることにした。




おかんは ほとんど
話せんようになってたけど

かすかな声で
NCのランドセル姿が見たかった、
て言うたから、

私は その日 急いで
近所の家に頼んで
ランドセルを借りて
写真を撮った。

DSC08861

NCは、この春、新1年生に
なるんやけど、
ランドセルはまだ
買ってないもんで。

借りたのは茶色のランドセル。

おかんが入ってる隔離病棟には
幼児は入れんかったんやわ。

だから、写真を撮って
それを見せようと思って。

あ、もちろん、
こんな後姿じゃない写真をね。


スマホの画面みたいな
小さいものは見えんかも
しれんと思ったから、

パソコンごと病室に持って行って
NCの写真を見せたら

おかん、

わずかに首を縦に振って
泣いてたわ。





おかんが死ぬ前夜、

うちの父ちゃん(主人)が
珍しく仕事から早く帰ってきて

『お前が病院に行く時、
 俺も一緒に連れてってくれ』

と。


父ちゃんはいつも
帰宅が22時を過ぎることが多くて
1度も おかんの見舞いには
行けてなかったんやけど

仕事で疲れてるし、
所詮、私の親やし、
無理して見舞いに行かんでいい、

て私は ずっと前から言うてて。



けど、その日は 何を思ったんか
早く帰ってきたんやわ。

で、父ちゃんと一緒に
病室に入って

父ちゃんは
おかんの手を握って、

『僕に、嫁にくれて、ありがとう。』

て言うてたわ。



おかんは
珍しくハッキリした声で、

『あんな、どうしようもない娘で
 堪忍してな』

と。




翌朝、病院から
ご家族を呼んで下さい、と
電話があって、

2時間後、

おかんは最後の最後まで
とことん苦しみながら
死んでった。



心電図がゼロになって
ピーという音が病室に
鳴り響いた瞬間、

おとんと妹は泣き崩れてたけど
私だけは泣かんかった。

泣くのを我慢したわけでは無くて
涙が出んかった。


死の哀しみよりも

『これでやっとおかんが
 ラクになれた。
 長いこと ほんとに
 お疲れ様でした。』

という想いのほうが
遥かに強かったから。




ほんとに、長かった。



ゴールテープを切ったような
気分やった。





で、おかんの遺言通り、

火葬だけの家族葬に
することにして。


病院からおかんを実家に
連れて帰ってきて

一晩、おかんと過ごして

翌日30日には火葬した。





親は、死にざまを子に教えるのが
最後の勤め、

というのを、どこかで
聞いたことがある。



人間が死ぬ瞬間て
そう なかなか見れるものでは無い。


身体を張って
全身全霊で死にざまを
見せてくれた おかんに、

心から敬意を表し感謝します。



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というわけで

もしリノベをしてなかったら、
もしブログをやってなかったら、

私はどっかの時点で
確実に、おかしくなってたと
思います。


そうならずに
どうにか ここまで来れたのは、
読んで下さっている皆さんの
お陰なんやわ。



また引き続き

インテリアネタを書いて
参りますので、


本年も

何卒宜しくお願い致します。





はい、

長々と最後まで読んで頂きまして

ありがとうございました。





お帰りの際には
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『次の記事、また頑張ろー』
とか思います。
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